門前の小僧習わぬ経を読む、そして思う




数日前、幼い時からの知り合いの尼僧さんからのメールに、認めてあった一文に心が止まりました。それは、『修 証 義』と言う、曹洞宗のお経の冒頭の一文でした。


「生きる」ということはどういうことなのか、「死」とはどういうことなのか、これ

が仏教の最も大事な問題である....



尼僧さんのメールの文はお経の英語訳でしたが、「あっ」と思い出し、心の中でそのお経「修証義の第一章」を諳んじて見ました。



ここ数ヶ月の間に、夫ジェイのお母さんが亡くなり、そのほか、知り合いの人が何人かこの世を去りました。そこへ持ってきて、ハワイの義理姉の病気のこともあり、私を取り巻く渦が幾重にも重なってグルグルとしている感じがしている今、普段あまり考えないことをあれやこれやと思い巡らせていた時期でした。


「生きる」ということはどういうことなのか、「死」とはどういうことなのか、これ

が仏教の最も大事な問題である....



修証義の第一章を、心で諳んじました。

「門前の小僧習わぬ経を読む」と言うことわざがありますが、これはまさに私のこと…。
子供の頃から読んできたこのお経でしたが、深い意味は考えたことがありませんでした。

ですが、今、この意味をもっと知りたくなり、現代訳を探し、日本語、英語で何度となく
読みました。


「そうだよね。それでいいんだよね。そう言うものなんだよね」と思い、
スーッと腑に落ちて、心が落ち着いて来ました。



海で拾った「ZENストーン」(と呼んでいます)を握りしめ、また今日も修証義を読んでみようかな。



****


『修 証 義』とは、曹洞宗開祖道元禅師の主著「正法眼蔵」を中心に引用し、明治23年に編纂されたものです。 経典は、全5章3704文字から成り立ち、日本語によるわかりやすい経典です。


その第一章の現代訳は:



生きるとは何なのか、死ぬとは何なのか。気付けば大地の上に立っていたこの自分という存在の生き死にを明らかにすることが、真実の道を歩もうとする者にとって何よりも重要な問題である。

自分の思いと関係なく生まれ、死ぬこの人生は、思いどおりにならない苦しみで満ちている。しかしその苦の真実、生きること死ぬことの真実を悟ることができれば、人はこの世を安らかに生きることができる。

だから、人生を嫌わず、この人生のほかに安らかな世界が存在するとも考えず、今生きているこの人生のなかで、幸せをその手で摑んでほしい。幸せとは何かを知ることこそが、人生において究め尽くさなければならないもっとも重要な事柄なのだ。







コメント